正義感が強い人や、公平・平等を主張する人ほど、周りから孤立していると感じたことはありませんか?
確かにその主張には同意できる一面もあるかもしれませんが、納得できない一面もあるものです。
あなたの中には、そんな正義感はありませんか?
目次
唯一絶対の正義・公平・平等は存在しない
社会という枠組みを正常に機能させるには、一定の秩序が必要ですよね。それは明確な規則であったり、互いに察するマナーであったり様々ですが、そこには大多数が「~するのが当たり前」という認識であることが前提となっています。
この「~するのが当たり前」と認識しているものに代表されるのが、正義・公平さ・平等といったものです。正義や公平さ平等さと聞けば、唯一絶対の軸があり、誰が見ても白黒はっきりつけられるものを想像しますよね。
残念ながら、唯一絶対の正義・公平・平等は存在しないのです。
あらかじめ決められている規則の『信号の表示を守って道路を横断する』などは、誰から見ても白黒がはっきりとつけられているのでわかりやすいですが、この規則に『状況』が加わると判断は厄介になります。
例えば、仕事の休憩時間という規則があります。就業規則や契約内容には、8時間労働の内に1時間の休憩をとることと取り決めがされていた場合、労働時間内で1時間の休憩をとることは絶対だと考えられます。
けれど、そこに『タイミング』という状況が加わるとどうなるか考えてみてください。
ほとんどの人はお昼の12時になった瞬間から1時間を休憩時間としています。その中で、一人だけお昼の休憩時間を30分、残りの30分を夕方に分散させている人がいました。
この場合、あなたならどう感じ、考えますか?
職場では、過去に休憩時間を分散してとる人はいませんでした。休憩時間をまとめてとっても分散させても仕事内容には全く影響がありません。休憩時間をずらしたり、分散してとることは就業規則にも契約内容にも違反はしていません。ならば、一人だけ違うタイミングで休憩をとることはいけないことではありませんよね。
しかし、『過去に前例がない』このただひとつの点が、歪んだ正義をつくり出します。
「他の人は12時から一斉に休憩をとっているのに、一人だけ足並みを揃えないなんてありえない」
「休憩はお昼にとるもので、夕方に休憩なんてするものじゃない」
「今は仕事に影響が出ていないからいいけれど、仕事に影響が出るようになったらいけないから、いけないことだ」
正義や公平・平等という認識が頑なな人ほど、こんな風に考えてしまうのではないでしょうか。「休憩時間をみんなと同じ時間にとるべき」と考えているのは、その人だけの価値観なのです。
もっと柔軟に考えてみれば、仕事に影響が出なければ休憩時間は個人の好きにとる方が、仕事への効率もよくなります。体に個人差があるのだから、集中できる限界も違い、休憩するタイミングに差が生じるのは当然だと考えれば、この答えは簡単に導き出せるはずです。
それができないのは、頑なに「~じゃないといけない」という正義にしがみ付いているからなのです。
そして、その根底には相手や周辺環境への嫉妬や不満が隠れていることもあります。
こうした正義をもとにした怒りは、激しく燃え広がりやすく、あっという間に周囲を巻き込んでいってしまいます。SNSなどでも思わぬ炎上になるのは、こうした一方向からしか見ていない正義感や公平さ・平等を持つ人が多いからです。
『バンドエイド・レッスン』で公平・平等を考える
正義や公平さ・平等は、ひとりの視点からだけで決めつけられるものではありません。多くの人が自分の中にある価値観のみに照らし合わせた正義や公平さ・平等に則って、周りを判定しています。
それは、とても怖いことだと思いませんか?いつでも自分に向けられた誰かの正義の刃があるということなのですから。
あるニュースサイトに、公平さを題材にした授業の内容が掲載されていました。アメリカの小学校教諭によって始められた公平さを児童に教える授業です。その名も『バンドエイド・レッスン』。
先生は生徒たちに「肘をケガしたことがある人」と質問し、「ある」と答えた児童の肘にバンドエイドを貼ります。
次に「頭をぶつけたことがある人」と質問し、「ある」と答えた児童の肘にバンドエイドを貼りました。これには児童も首を傾げ、なぜ?と疑問を抱えます。
さらに、「膝をケガしたことがある人」と質問し、「ある」と答えた児童の肘にバンドエイドを貼りました。
児童は「おかしい」と声をあげ、先生は本当の公平さについて教えていきます。
「先生は誰がどこをケガしても、同じように肘にバンドエイドを貼りました。これはある視点から見れば平等な扱いです。先生は誰に対しても同じ態度をとったから平等です。しかし、本当の公平・平等とは、『みんながそれぞれに上手くやる為に必要なものを手に入れること』です」
確かにその通りですよね。手をケガしている人に対して、他のみんなと同じように荷物を持ちなさい、作業をしなさいなどと言っても、できないことはできません。他の人と同じ対応だから、それが平等な対応だと言われたら、「それは違う」と誰もが言うでしょう。
人はそれぞれに違っていて当然ですよね。同じようなことができる人が多くを占めますが、そのできる範囲には差があり、できない人もいます。それを考慮していない正義や公平・平等は、机上の空論ではないでしょうか。
個人の正義で人を裁いてはいけない
人には、それぞれの価値観があります。それは生まれた瞬間から様々な経験をして、自分の判断の基準を育てていきます。全く同じ価値観の人は存在していません。誰もが自分独自の価値観を持っています。
それでも衝突することなく人と過ごして居られるのは、価値観が違う人もいることを受け入れているからですよね。「そういう考えの人もいる」と理解し、認めていれば、人との間に無駄な争いは起きません。自分の中の価値観だけで物事を判定しようとするから、人との間に争いが起き、そしてそれはずっと平行線のままで争いが収まらなくなる原因となってしまうのです。
自分の正義や公平さ・平等を振りかざす人は、自分の中にある満たされない不満や怒りをもとにしていることが多く、入念なシミュレーションによる理論武装をした上で口を出してきます。
あなたの中にはありますか?
何度も思い返して、「こういう時はこう言おう」と温めている攻撃の言葉。
もしそんな言葉があるなら、今すぐに捨ててしまってください。その言葉を吐き出した時、「正義は勝つ」や「人を支配した」という快感を得る代わりに、周りからの信頼を失います。物事を自分の視点だけで裁こうとする裁判官には、誰も近寄ることはできないからです。
人を言い負かすことは快感でしょう。けれど、その一時の快感の為に人生を共に歩む人達からの信頼を失ってもいいのでしょうか?
自分の価値観からつくり出した正義、公平さ、平等の基準を、それが合わない誰かに押し付けていいのでしょうか?
あなたの中にも正義の心があります。その正義は、あなた自身や周りの人を守る為の盾であって、人を攻撃する剣になってはいけないものです。
自分の中にある正義・公平さ・平等が、何を裁こうとしているか、見つめ直してみてください。
SNSやってます!
ほぼ毎日更新のSNSアカウントです。心を軽くする情報などをお届けしていますので、よろしければフォローをお願いします!